夜が明けても、球根の名前が頭を離れなかった。
透矢は宿の布団の中で天井を見つめ、ようやく起き上がった時には、窓の外がうっすらと白んでいた。
山沿いの道を歩く。西谷の朝は冷たく、杉の梢から滴が落ちるたびに、森全体が小さく息をしているように感じられた。
しばらく歩いたところで、足が止まった。
道の脇に、一本の桜の古木があった。幹は人の胴より太く、苔に覆われている。それでも枝の先まで花が咲き誇り、薄桃色の幕が空に広がっていた。
その木に、子どもが耳を当てていた。
小学校の低学年ほどの少女だった。目を閉じ、頬を幹にぴたりと押し当て、動かない。
「……大丈夫か」
声をかけると、少女は静かに目を開けた。驚いた様子もなく、ただまっすぐに透矢を見た。
「木が歌ってる」
「歌っている?」
「聴いてみて」
断ることができなかった。昨日も同じ気持ちで土間に上がったと、透矢は思った。
幹に耳を当てる。最初は何も聞こえなかった。しかし目を閉じ、息を整えると——確かに、あった。低く、規則的な振動。鼓動とも水の流れともとれない、ぼうっとした響きが、耳の奥に入り込んでくる。
透矢は慌てて体を離した。
「花守りの末の子よ」
少女がぽつりと言った。
「え……」
「うちのおじいちゃんがそう言うてた。うちらはずっと、この木の声を聴いてきたんやって」
透矢は無意識に、鞄の中の古書を取り出していた。余白に描かれた略図——藤堂仙蔵の家らしき建物と、傍らの一本の木。
少女の目が、大きく見開かれた。
「……それ、おじいちゃんが描いたんや」
桜の花びらが一枚、ゆっくりと二人の間に落ちた。
