花守りの夢譚 〜西谷の春に眠る秘密〜 #10-3

夜が明けても、球根の名前が頭を離れなかった。

透矢は宿の布団の中で天井を見つめ、ようやく起き上がった時には、窓の外がうっすらと白んでいた。

山沿いの道を歩く。西谷の朝は冷たく、杉の梢から滴が落ちるたびに、森全体が小さく息をしているように感じられた。

しばらく歩いたところで、足が止まった。

道の脇に、一本の桜の古木があった。幹は人の胴より太く、苔に覆われている。それでも枝の先まで花が咲き誇り、薄桃色の幕が空に広がっていた。

その木に、子どもが耳を当てていた。

小学校の低学年ほどの少女だった。目を閉じ、頬を幹にぴたりと押し当て、動かない。

「……大丈夫か」

声をかけると、少女は静かに目を開けた。驚いた様子もなく、ただまっすぐに透矢を見た。

「木が歌ってる」

「歌っている?」

「聴いてみて」

断ることができなかった。昨日も同じ気持ちで土間に上がったと、透矢は思った。

幹に耳を当てる。最初は何も聞こえなかった。しかし目を閉じ、息を整えると——確かに、あった。低く、規則的な振動。鼓動とも水の流れともとれない、ぼうっとした響きが、耳の奥に入り込んでくる。

透矢は慌てて体を離した。

「花守りの末の子よ」

少女がぽつりと言った。

「え……」

「うちのおじいちゃんがそう言うてた。うちらはずっと、この木の声を聴いてきたんやって」

透矢は無意識に、鞄の中の古書を取り出していた。余白に描かれた略図——藤堂仙蔵の家らしき建物と、傍らの一本の木。

少女の目が、大きく見開かれた。

「……それ、おじいちゃんが描いたんや」

桜の花びらが一枚、ゆっくりと二人の間に落ちた。