ちまきの手 〜西谷、五月の里山にて〜 #17-6

夕暮れが波豆川の水面を橙に染めるころ、渉は宿を出た。

明日の朝には神戸へ戻る。それだけはわかっていた。

何を言いに行くつもりなのか、自分でもよくわからなかった。ただ足が、坂の上の農家へと向いていた。

石垣沿いの細道を上がると、灯の家の灯りが見えた。開いた窓から、低い声が流れてきた。

「都会の会社いうても、農業の仕事やからな」

父親の声だった。

「……うん」

灯の声が、静かに返った。

「お前が決めることや。けど、ここにいてほしいのも、本当のことで」

渉は石垣の手前で足を止めた。

農業法人、という言葉が風に混じって聞こえた。それきり、二人の声は低くなり、渉には届かなくなった。

踵を返した。

来た道を引き返しながら、渉は自分の手を見た。毎日図面を引く手だ。寸法と線の中に収まっていれば、何も迷わずにいられる手だ。

波豆川のほとりに下りると、水音だけがあった。

灯は迷っている。それは昨日の土間でも、ちまきの香りの中でも、うすうす感じていた。

なのに自分は、何を言いに行こうとしていたのだろう。

残れ、と言えるほどの言葉を、自分は持っていない。去るな、と引き留める根を、この土地に持っていない。

川の石に腰を下ろすと、冷たい夜気が膝に沁みた。

対岸の山の稜線が、暗い空に黒く溶けていた。西谷の夜は、誤魔化しを許さないように静かだった。

図面の中だけで生きてきた、と思った。

線と線のあいだに人の気配を描くことはできても、そこに自分は立っていなかった。

水音は、変わらなかった。