ちまきの手 〜西谷、五月の里山にて〜 #17-3

教室を出たのは、午後の日がまだ高い時刻だった。

渉が駐車場への道を戻りかけると、田んぼの方へ続く細い畦道に、見覚えのある後ろ姿があった。

麦わら帽子。日焼けした首すじ。朝倉灯が、棚田の縁をゆっくり歩いていた。

声をかけようとして、足が止まった。

何を言う、と渉は思った。礼か。それとも先ほどの続きか。どちらも、言葉になる前に霧散した。

ただ、その後ろ姿から目が離せなかった。

灯は畦のやや広いところで立ち止まり、腰を下ろした。帽子を膝に置いて、水田の向こうの山を眺めている。

それから、振り返った。

「見ていくの?」

短い言葉だった。咎めるでも、誘うでもなく、ただ事実を確かめるような声だった。

渉は黙って、少し離れた畦に腰を下ろした。

波豆川のせせらぎが、低く続いている。田植えを終えた水面が、夕暮れ前の斜光を受けて鈍く輝いていた。大原野の山肌は、五月の濃い緑に覆われて、どこか落ち着いた重さがあった。

しばらく、二人とも黙っていた。

遠くでホトトギスが鳴いた。一声、また一声。

「毎年、ここで聴くんですか」

「聴くというか……聴こえてくる」

灯は山の方を見たまま、ゆっくり言った。

「田んぼに来たら、勝手に聴こえてくる。それでいい」

渉は何も言わなかった。

うまく言えないことを、無理に言葉にしない人だと思った。それが少し、自分に似ていると思った。

風が来て、水面が揺れた。ホトトギスがもう一度鳴いて、それきり静かになった。

渉は、図面を引くときとは違う種類の集中で、その静けさの中に座っていた。