神戸に戻って三日が経った。
デスクに積まれた案件を片付けながら、悠はふとある名前に目が止まった。
新しく届いた雑誌社からのデザイン依頼。担当ライターの欄に、こう書かれていた。
「長谷川朱音」
手が止まった。
画面をスクロールして、会社名を確認した。間違いない。あの取材カメラを構えていた、あの朱音だ。
偶然か。
いや——偶然にしては、できすぎている。
悠はしばらくモニターを見つめた。胸ポケットに手を当てると、折りたたんだメモ用紙の感触があった。棚田の細い線。七文字の約束。
「また来ます」
向こうも、知っていたのだろうか。それとも本当に、ただの偶然か。
どちらでもいい、と気づいた。
大事なのは、今、ここに名前があるということだ。
悠はメールの返信画面を開き、キーボードに指を置いた。
業務の件は一行で済んだ。問題は、その次だ。
何度か書いて、消した。
最終的に残ったのは、シンプルな一文だった。
「西谷の流しそうめん、また来年も流れます。一緒に食べませんか」
送信ボタンに指を重ねた瞬間、窓の外が急に暗くなった。
夕立だ。
大粒の雨が窓ガラスを叩き始め、街の音がかき消されていく。悠は画面を見た。見て、押した。
送信完了。
雨は激しくなった。
山あいの、あの川も、今頃は音を立てて流れているだろう。岸の草が揺れて、田んぼに水が満ちて、遠くで子供の声がして——。
スマートフォンが震えた。
短い返信だった。
「来年より、今秋の取材ではどうですか。西谷、もう一度行きたいので。——朱音」
悠は少し笑った。
窓の外、雨は上がりかけていた。
