翌朝、ひなたが宿の玄関先に現れたのは、三枝がリュックのファスナーと格闘していた午前八時のことだった。
「昨日の草ペースト」と彼女は言った。「お父さん、好きって言ってました」
「……ご冗談を」
「ほんまです。ビールに合うって」
三枝は返す言葉を見つけられなかった。二十年間、どれだけ精緻なソースを作っても、「ビールに合う」と言われたことは一度もなかった。それがいいことなのか悪いことなのか、今もよくわからなかった。
ガンさんは軽トラの荷台に寄りかかって、煙草を一本吸い終えてから言った。
「悪くなかったで。個性的すぎたけどな」
「褒めてないですよね、それ」
「褒めてる。俺の言葉ではな」
笑った。二人とも、少しだけ。
大阪に戻る前に、三枝は一人で波豆川の畔に座った。
川は何も急いでいなかった。水面を風が撫でて、葦が揺れ、遠くの山から、竹を割るような乾いた音が届いた。誰かが仕事をしている音だった。
そうめんのことを考えた。
竹の流し台を、そうめんが走るとき——大切なのは、完璧な傾斜ではないのかもしれない。ほんの少しの歪み、ほんの少しの遊び、そして誰かの「来い来い!」という笑い声。それがあれば、細い麺はちゃんと向こう側まで届く。
人も、たぶん似たようなものだと、三枝は思った。
宿に戻り、机の上に一枚の紙を置いた。来年の西谷まつりの参加申込書だった。名前の欄に、少し迷ってから「三枝孝一(薬味担当・要指導)」と書いた。
夏の西谷は、何も待ってくれなかった。
でも、ちゃんと、残っていた。
