清流の、きみへ 〜西谷、八月の川べりで〜 #26-2

名前を聞きそびれた、と誠一は後になって気づいた。

女性は村井陽子と名乗った。波豆小学校に今年の春から赴任した、理科の教師だという。夏休み明けに子どもたちが川の生き物を調べる自由研究を計画していて、その下見に来たのだと、地図を畳みながら教えてくれた。

「先生が下見をするんですか」

「子どもに任せきりにするのは無責任ですから」

きっぱりとした言い方だった。好感が持てた。

誠一は旧道の入り口まで案内しながら、川沿いの道の話をした。増水すると足元が変わること、夏の午後は日陰が少ないこと。陽子はそのたびに小さなノートに書き留めた。

そこまでは、よかった。

「オオサンショウウオが出るのはもう少し上流ですよ。ここじゃないです」

言った瞬間、誠一は自分の口を塞ぎたくなった。

誰も聞いていない。子どもたちが調べるのは川魚か水草の類に決まっている。オオサンショウウオなど、混乱の種にしかならない。

陽子は一瞬だけ目を丸くして、それからまたノートを開いた。

「それも書いておきます」

責めるでも笑うでもなく、ただそう言った。

誠一は波豆川の水面を見た。光が揺れていた。こういうときにいつも何かを余計に言う。学生の頃も、会社でも、付き合っていた女性の前でも、そうだった。

「すみません、関係なかったですね」

「いいえ。面白いじゃないですか、オオサンショウウオ」

陽子は川の上流の方角を、少し細めた目で見た。

その横顔が、夏の光の中にあった。

誠一は何も言えなかった。言えなかったことが、めずらしく、惜しくなかった。