報告書は、三十枚になった。
最後の一文を打ち終えた時、窓の外はもう白み始めていた。
「この土地は生きている。数値がそれを語る以前に、土そのものがそれを示している。耕作放棄地としての整理ではなく、営農再開への支援を強く推薦する」
送信ボタンを押す指が、少し震えた。異動、あるいは左遷。覚悟はしていた。それでも、指は止まらなかった。
春になった。
名郷から切畑へかけての斜面に、少しずつ鍬の音が戻ってきた。
最初は市造の段々畑だった。冬の間、石垣の補修を一人で続けていた老人が、ある朝黙って鍬を土に打ち込んだ。その音を聞いて、隣の澄江が畦に出てきた。二言三言、言葉を交わして、二人は並んで畝を切り始めた。
冬馬はその少し後ろに立って、二人の背中を見ていた。
「邪魔するな」と市造は言ったが、追い払いはしなかった。
土が掘り返されるたびに、濃い匂いが立ち上った。冬馬はそれを、胸いっぱいに吸い込んだ。微生物の活性、有機物の分解。頭の中でそういう言葉が浮かびかけて、すっと消えた。
ただ、いい匂いだと思った。
澄江が畝の端に立って、遠く波豆川の方を見やった。
「あんた、本当に残るつもりか」
「はい」と冬馬は答えた。
「後悔するで」
「するかもしれません」
澄江は小さく笑った。それ以上は何も言わなかった。
その時、冬馬の耳に声が届いた。
地の底から、ゆっくりと押し上げてくるような。子どもの頃から怖れていたその感覚が、今は違って聞こえた。
恐ろしくなかった。
それは確かに、呼んでいる声だった。
春霞の向こうで、西谷の山が静かに光っていた。
