清流の、きみへ 〜西谷、八月の川べりで〜 #26-5

宮田さんに声をかけられたのは、翌日の夕方だった。

「棚田、見て行かんか。ちょうどええ時間や」

断る理由もなく、誠一と陽子はそのまま老人のあとをついた。

西谷の棚田は、波豆のあたりから斜面に沿って何段も重なっている。稲穂が揃って西日を受け、金色というより、くすんだ山吹色に光っていた。

宮田さんはさっさと先へ行ってしまい、気づけば二人だけになっていた。

陽子が畦の端に立って、田んぼを見渡した。

「ここの子どもたちはいいなあ」

独り言のような声だった。

「こんな場所で育って」

誠一は何か言おうとした。でもすぐに、それが難しいとわかった。同意するには軽すぎる。かといって、気の利いたことも出てこない。

風が吹いて、稲穂がいっせいに傾いた。

「……波豆川、って言うんです」

誠一は、気づいたら口を開いていた。

「あの川。祖父に教えてもらったんですよ。子どもの頃に。波豆川、って」

陽子が少し振り向いた。

「ただそれだけを、今でも覚えてて」

なぜそれを言ったのか、自分でもよくわからなかった。でも黙っているより、それだけを言う方が正直な気がした。

「……いい名前ですね」

陽子は前を向いたまま、そう言った。

夕暮れが棚田の向こうへゆっくり下りていく。宮田さんの麦わら帽子が、遠くで小さくなっていた。

誠一は、陽子の横顔を見ないようにしながら、見ていた。

川の名前をひとつ。それだけで、何かが少し、動いたような気がした。