波豆川の土手には、彼岸花がまだ出ていない。かわりに、名前も知らない草が風に揺れていた。
陽子とならんで畦道を戻っていると、向こうから一人の老人が来た。腰が少し曲がって、麦わら帽子をかぶっている。
「あんた、去年もその娘さんと来とったな」
老人は誠一を見て、当たり前のように言った。
誠一は一瞬、何を言われたのかわからなかった。去年、自分はここに来ていない。そう言おうとして、口が止まった。
老人はもう通り過ぎかけていた。陽子が小さく会釈するのが、視界の端に見えた。
「あの、僕は去年は——」
「ええんよ、ええんよ。若い人はええ」
老人は振り返らずに手を振った。宮田さん、と陽子が教えてくれた。八十近いけれど、川のことなら誰より知っている人だと。
誠一は返す言葉を探したまま、ただ立っていた。
陽子がくすりと笑った。こらえようとして、こらえきれなかった笑いだった。
「オオサンショウウオみたいな人ですよね、倉田さんって」
「……どういう意味ですか」
「じっとしてる。でも、ちゃんといる」
それだけ言って、陽子は先に歩き出した。
誠一はしばらく動けなかった。
ちゃんといる、という言葉を、頭の中で何度か繰り返した。褒められたのか、からかわれたのか、よくわからなかった。でも不思議と、嫌ではなかった。
祖父の家への道を歩きながら、誠一は自分がいつも「余計なことを言う」と思ってきたのに、今朝は何も言えなかったことに気づいた。
言えなかったのに、何かが伝わったような気がした。
それがどういうことなのか、うまく言葉にならなかった。川の音だけが、遠くでまだ続いていた。
