夜の波豆川は、静かに光っていた。
ホタルだった。
岸辺の草むらから、あぜ道の縁から、水面の上を漂うように、淡い光が点いては消えた。ひとつが動けば、また別のひとつが応える。言葉を持たない、小さな呼びかけだった。
誠司は立ち止まり、息を詰めた。
こういう夜を、あいつは見ていたのか。
村瀬はここへ来て、この光を見て、それから手帳に一行書いた。「西谷のホタルを見に行く」と。誠司を誘う言葉を、まだ出せないまま。
水面をひとつの光がゆっくりと横切った。
——誠司さん、来てくれましたよ。
声が聞こえた気がした。穏やかな、村瀬の声だった。
誠司は目を閉じなかった。光を見続けた。
お前が見た景色を、ようやく俺も見た。遅くなってすまなかった、とは言わなかった。そういう言葉は、この場所には似合わなかった。
ただ、胸の奥の何かが、ゆっくりとほどけていく感じがした。
翌朝、庄平が縁側で待っていた。
誠司が頭を下げると、老人は「ええ顔になったな」と言った。
「そうですか」
「来年も来い。一緒にホタルを見ろ」
誠司は車のドアに手をかけたまま、しばらく黙った。
来年。
その二文字が、不思議なほど遠くなかった。
「……来ます」
答えたとき、誠司は笑っていた。自分でも気づかないくらい、ひっそりと。
庄平が目を細めた。
六月の朝日が、山際から差してきた。波豆川の水音が、谷あいに静かに響いていた。
西谷の里山は何も言わない。ただ、死者と生者を、老いた者と傷ついた者を、柔らかく包んで、そこにあり続けた。
