試験場からの電話は、夕刻の波豆川の音に混じって届いた。
「調査は来週中に切り上げてくれ。耕作放棄地の復興より、あちらの開発案件を優先することになった」
上司の声は、迷いがなかった。
冬馬はパソコンの前に戻った。書きかけの報告書が画面に広がっている。土壌の数値、微生物の活性、水分保持率。整然と並んだデータが、妙に遠く見えた。
カーソルが点滅している。指が、動かなかった。
夜になると、冬馬は棚田へ向かった。理由を考えるより先に、足が動いていた。
霜が降りていた。
西谷の山並みが、月明かりの中で黒く沈んでいる。棚田の石垣に薄く白い膜が張り、踏み出すたびに草が微かな音を立てた。
その時、畦道の端に童が立っていた。
八つか、九つか。着古した藍色の着物。顔の輪郭が、霧にほんの少しにじんでいる。
「……誰だ」
童は答えなかった。
ただ、静かに膝をついた。霜で固まった土の上に、小さな両手をそっと置いた。目を閉じたまま、じっとしている。
冬馬は息を詰めて見ていた。
しばらくして、童が手を持ち上げた。
手のひらの跡が、土についていた。その浅いくぼみの縁から、細い緑の芽が一本、静かに覗いていた。
霜の夜に。
冬馬は膝をついた。芽に指先を近づけると、ほんのわずかな温もりが伝わってきた。土の底から、ゆっくりと押し上げてくる力のようなものが。
振り返ると、童はいなかった。
波豆川の音だけが、山の闇から流れてくる。
冬馬は立ち上がり、スマートフォンを取り出した。報告書のファイルを開いて、長い間、画面を見つめた。それから、書き直し始めた。
数値ではなく、自分の言葉で。
