友人の家は、茅葺きではないが、梁の太い古い農家であった。荷を解き、湯を沸かして茶を淹れ、縁側に座布団を出して腰を下ろした。
日が暮れると、山は急に黒くなる。虫の声が途切れ途切れに聞こえるほかは、何の物音もない。東京の下宿にいた若い頃を思い出して、私は妙に落ち着かない気持ちになった。
「寒かろう」
不意に声がした。私は茶碗を持ったまま固まった。庭の向こう、薄闇の中に、あの案山子の影が見える。畑の端に、いつの間にか移っていたものらしい。
「誰だ」
「誰も何も、昼間に会釈をしてくれた者だ。礼儀正しい男だと思ってな」
声は低く、藁を擦り合わせたような響きであった。私は狐に化かされたのかと思い、頬を抓ってみた。痛かった。
囲炉裏はないが、古い石油ストーブの赤い火が足もとを温めていた。その火の色が、闇の中の案山子の輪郭をぼんやりと浮かび上がらせている。
「君は、案山子だろう」
「そう呼ばれておる。それ以外に呼ばれたことがないゆえ、そうなのだろう」
私は呆れたが、不思議と恐ろしくはなかった。むしろ、誰かと言葉を交わすのが久しぶりのような心持ちがした。
「稲はもう刈られた。君の役目は終わったはずだ。何故まだ立っている」
案山子は少し黙ってから、こう答えた。
「それを、私も考えておったところだ」