宮田さんに声をかけられたのは、翌日の夕方だった。
「棚田、見て行かんか。ちょうどええ時間や」
断る理由もなく、誠一と陽子はそのまま老人のあとをついた。
西谷の棚田は、波豆のあたりから斜面に沿って何段も重なっている。稲穂が揃って西日を受け、金色というより、くすんだ山吹色に光っていた。
宮田さんはさっさと先へ行ってしまい、気づけば二人だけになっていた。
陽子が畦の端に立って、田んぼを見渡した。
「ここの子どもたちはいいなあ」
独り言のような声だった。
「こんな場所で育って」
誠一は何か言おうとした。でもすぐに、それが難しいとわかった。同意するには軽すぎる。かといって、気の利いたことも出てこない。
風が吹いて、稲穂がいっせいに傾いた。
「……波豆川、って言うんです」
誠一は、気づいたら口を開いていた。
「あの川。祖父に教えてもらったんですよ。子どもの頃に。波豆川、って」
陽子が少し振り向いた。
「ただそれだけを、今でも覚えてて」
なぜそれを言ったのか、自分でもよくわからなかった。でも黙っているより、それだけを言う方が正直な気がした。
「……いい名前ですね」
陽子は前を向いたまま、そう言った。
夕暮れが棚田の向こうへゆっくり下りていく。宮田さんの麦わら帽子が、遠くで小さくなっていた。
誠一は、陽子の横顔を見ないようにしながら、見ていた。
川の名前をひとつ。それだけで、何かが少し、動いたような気がした。
