夜明け前に雨が上がった。
空の端が、わずかに白んでいた。
光太郎が縁側に出ると、山の稜線が静かに浮かびあがってくるところだった。波豆川の音が、また澄んでいた。昨日の濁りが、もうどこにも残っていなかった。
蒼が、いつのまにか隣に立っていた。
「行こう」
一言だけ言った。
川岸は、夜露に濡れていた。草が足に触れるたびに、冷たい水気が伝ってきた。蒼は駆けずに、歩いた。
淵は、澄み返っていた。
石の一枚一枚が、水の底で静かに光っていた。あの大きな岩の下を、蒼はしばらくじっと見ていた。暗い水の奥に、なにかがいた。ゆっくりと、息をするように揺れていた。
「いる」
蒼が言った。声に出さないような声だった。
光太郎は頷いた。
やがて蒼は立ちあがって、川に向かって言った。
「またくる」
それだけだった。川は何も答えなかった。ただ、水が石を撫でる音だけが続いていた。
帰り支度をすませ、宿を出たのは朝の七時過ぎだった。
波豆の田んぼが、朝の光の中でまっすぐに立っていた。稲の葉に残った雨粒が、いくつも光っていた。
車に乗り込む前に、光太郎はリュックを開けた。父・義雄が遺した手書きの地図を取り出した。
色褪せた紙に、父の筆跡で川の名前や淵の場所が書き込まれていた。丁寧な、小さな字だった。
光太郎は、それをそっと蒼のリュックの内ポケットに入れた。
蒼は気づかなかった。
でも、いつか気づく。
そのとき、この地図はちゃんと次の手に渡っている。父が光太郎に残したように、光太郎が蒼に渡すように、この川のそばには、いつも誰かが立っている。
清流は、今日も変わらず流れていた。
