宝塚駅の北口に、朝六時十七分のバスが静かに入ってきた。
「西谷・切畑線、試験運行初日でございます」
運転手の声は妙に改まっていた。乗客は岸田を含めて三人だった。
岸田誠三は窓際の席に腰を落とし、膝の上に古い取材ノートを置いた。開くでもなく、ただそこに置いた。十年前のものだ。表紙の角がほつれ、赤いボールペンで「西谷・農地転用」と走り書きがある。
バスは武庫川沿いに北へ向かった。
しばらくすると視界が開けた。川に沿って刻まれた棚田が、朝の光の中に広がっていた。稲刈りを終えた田んぼが、褪せた金色で続いている。岸田はその景色を見ながら、記者としての反射で言葉を探した。「武庫川上流域、秋の農村風景——」
だが、続かなかった。
坂本律子。
名前が、不意に浮かんだ。
先週、同僚の牧が何気なく言った。「西谷であの農家の女性、まだやってるらしいですよ。ひとりで」
岸田は「そうか」とだけ答えた。しかしその夜、十年前のノートを引っ張り出した。
彼女は農地転用に反対していた地権者のひとりだった。取材で会ったのは三度だけ。声は静かで、しかし言葉は揺るがなかった。「この土は、売るものじゃない」と言い切った目が、今でも思い出せた。
バスが小さなカーブを曲がったとき、窓ガラスに自分の顔が映った。
四十三歳。疲れた顔だ、と岸田は思った。記事を書くためではない。それだけはわかっていた。ではなぜこのバスに乗ったのか、問いの答えを彼はまだ、うまく言葉にできなかった。
車窓の向こうで、クヌギの木から何かが落ちた。
栗か、どんぐりか。確かめるより早く、バスは先へ進んだ。
