おトメさんのキッチンは、だしの匂いがした。
正確に言えば、だしになろうとしている匂いだった。煮干しと昆布が水の中でゆっくりと自分を差し出していく、あの静かな予感の匂いだ。
三枝は土間の入口に立って、鼻の奥でその匂いを転がした。二十年間、彼はグルタミン酸とイノシン酸の相乗効果について、スタッフに何度も講義してきた。しかしおトメさんの台所に立ちのぼるこの匂いは、そんな言葉をあっさり追い出してしまった。
「どのくらい煮るんですか」
「沸いてきたら止める」
「昆布は何グラムくらい」
「このくらい」
「このくらいって、何センチ——」
「目で見たらわかる」
おトメさんは振り向きもせずに答えた。八十二歳の背中は小さかったが、その小ささには一切の隙がなかった。
三枝はポケットから手帳を取り出した。こっそりメモを取ろうとした、その時だった。
肘が鍋の柄に当たった。
世界がスローモーションになった。三枝の目が鍋を追い、手が空を掴み、だしが放物線を描いた。
べしゃ、という音がした。
キッチン全体が、だし色に染まった。
おトメさんが振り向いた。
沈黙が三秒続いた。
「……あんた、何してんの」
三枝は床に膝をついた。だし汁が膝に染みた。生まれて初めて、コンロの前で正座をした。
「もう一度、一緒に作らせてください」
声が、思ったより小さかった。
おトメさんはしばらく三枝を見ていた。それからため息をついて、棚から煮干しをまた取り出した。
「ちゃんと見とき」
それだけ言って、また鍋に向かった。
三枝は手帳をポケットに戻した。二十年ぶりに、目だけで覚えることにした。
