竹の中を、そうめんが走る 〜西谷の夏、四十二歳の見習い〜 #21-4

おトメさんのキッチンは、だしの匂いがした。

正確に言えば、だしになろうとしている匂いだった。煮干しと昆布が水の中でゆっくりと自分を差し出していく、あの静かな予感の匂いだ。

三枝は土間の入口に立って、鼻の奥でその匂いを転がした。二十年間、彼はグルタミン酸とイノシン酸の相乗効果について、スタッフに何度も講義してきた。しかしおトメさんの台所に立ちのぼるこの匂いは、そんな言葉をあっさり追い出してしまった。

「どのくらい煮るんですか」

「沸いてきたら止める」

「昆布は何グラムくらい」

「このくらい」

「このくらいって、何センチ——」

「目で見たらわかる」

おトメさんは振り向きもせずに答えた。八十二歳の背中は小さかったが、その小ささには一切の隙がなかった。

三枝はポケットから手帳を取り出した。こっそりメモを取ろうとした、その時だった。

肘が鍋の柄に当たった。

世界がスローモーションになった。三枝の目が鍋を追い、手が空を掴み、だしが放物線を描いた。

べしゃ、という音がした。

キッチン全体が、だし色に染まった。

おトメさんが振り向いた。

沈黙が三秒続いた。

「……あんた、何してんの」

三枝は床に膝をついた。だし汁が膝に染みた。生まれて初めて、コンロの前で正座をした。

「もう一度、一緒に作らせてください」

声が、思ったより小さかった。

おトメさんはしばらく三枝を見ていた。それからため息をついて、棚から煮干しをまた取り出した。

「ちゃんと見とき」

それだけ言って、また鍋に向かった。

三枝は手帳をポケットに戻した。二十年ぶりに、目だけで覚えることにした。