柏の葉の煙 〜西谷・端午の里山にて〜 #11-2

朝靄がまだ波豆川の水面に低く漂う頃、省吾は古い草履を突っかけて表へ出た。

眠れなかったわけではない。ただ、夜明けとともに目が開いてしまう。この歳になると、体が勝手に起き上がろうとする。大阪でもそうだった——店のある頃は、それが当たり前だった。

川沿いの細い道を、あてもなく歩いた。

雑木林の際に、昨日の老婆がいた。竹籠を脇に抱え、柏の若葉を一枚一枚手に取って眺めている。

省吾は会釈だけして通り過ぎようとした。

「あんた、昨日の」

低い、しかし芯のある声だった。

振り返ると、老婆はこちらをじっと見ていた。

「森本ハナや。あの家に入ったんやろ、多田さんとこの」

「……はい。孫です」

「そうか」

それだけ言って、ハナはまた葉に目を戻した。

省吾も黙って立っていた。去るきっかけを失ったまま。

「毎年やるんですか」と、気づけば口にしていた。

「五十年以上な。集落の女らと、端午の前に」

ハナの指が、迷いなく葉を選り分けていく。艶のあるもの、虫食いのないもの、程よい大きさのもの。

「形の揃ったのを選ぶんですね」

「包むもんやから。中身を守る葉やから」

省吾は黙って聞いた。

ハナが不意に、籠を差し出した。

「手、貸しなさい」

命令でも懇願でもない。ただの、当然のひと言だった。

言われるまま、省吾は籠を受け取った。ハナが示す通りに葉を手に取ると、青い匂いが鼻をついた。

三十年前に嗅いだ匂いだった。

職人だった頃——いや、もっと前。あの台所の、母の隣に立っていた頃の。

「……こうですか」

「そう」

ハナはそれだけ言って、また黙々と葉を選った。

川の水音だけが、ふたりの間を静かに流れていった。