これは、奇妙な記録だ。その終わりだ。
三月になった。
波豆川は雪解けの水を満たし、冷たい光の中を勢いよく流れていた。大峰山の稜線には、まだ白いものが残っていた。けれど棚田の土は、確かに目覚めようとしていた。
行政への申請が、通った。
あの夜から、何かが変わった。庄三が区の寄り合いに出た。陽子が市の窓口へ幾度も足を運んだ。ケンジが農業委員会の書類を抱えて自転車を漕いだ。静かな、しかし執念深い戦いだった。
そして今日、闇田に人が集まった。
庄三、ケンジ、陽子。それから、西谷の農家が数人。顔と名前を覚えたのはいつの間にか、だった。
田起こしの火入れ式。
枯れ草を束ねたものに、庄三が火を入れた。小さな炎が、すぐに棚田の畦道を舐めるように広がった。白い煙が、波豆川の上をゆっくりと流れた。
「燃えとる」
ケンジが、ぼそりと言った。
「当たり前や」
俺は答えた。
煙が霞のように棚田を包んだ。陽子が、泣いているのか笑っているのか分からない顔で空を見上げていた。
俺は、ずっと謎を追っていた。
地図に記された闇田の印。消えた耕作の記録。誰かの意志が、この土地に埋められたように見えた。
だが今なら分かる。
謎の正体は、人の意志そのものだった。庄三が、この土を耕し続けた。誰にも言わず、記録にも残らず、ただ黙って火を入れ続けた男の、四十年分の執念だ。
それは怪異でも幻でもなかった。
土の中に眠る、本物の火だった。
炎が棚田を渡り、春霞が西谷の谷を満たした。
俺はまだ、燃えていた。
