清流の、きみへ 〜西谷、八月の川べりで〜 #26-3

朝のうちは靄が出る。

誠一はそれを忘れていた。祖父母の家で目を覚まし、縁側から川の方角を見ると、杉の木立が白く霞んでいた。子どもの頃も、こういう朝があった。

散歩のつもりで川沿いに歩き始め、上流へ向かうにつれて水音が大きくなった。波豆川は岩が多くなり、流れが白く砕ける。その手前の浅瀬に、見覚えのある後ろ姿があった。

しゃがんで、石の下を覗き込んでいる。

「村井さん」

陽子は振り返らずに、人差し指を立てた。静かに、という仕草だった。

誠一は黙って近づき、同じようにしゃがんだ。膝が濡れた。陽子の横に、昨日と同じ小さなノートがあった。

川底は暗かった。苔の匂いがした。

しばらく、二人とも何も言わなかった。水だけが喋っていた。

そのとき、石が動いた。

正確には、石に見えていたものが、動いた。ゆっくりと、確かめるように。ぬめりのある背中に、川の光が滑った。

誠一は息をのんだ。陽子も同じだったと思う。二人は同時に顔を見合わせた。距離が近かった。思ったより近かった。

「オオサンショウウオ」

陽子が小声で言った。

誠一はうなずくしかなかった。

生き物はもうひと呼吸分だけそこにいて、やがて深みへ消えた。水がその後を穏やかに埋めた。

「昨日、上流にいると言っていたから」

陽子はそう言いながら、ノートを拾い上げた。

誠一は立ち上がりながら、自分が昨日言ったことをこんな形で使われるとは思っていなかった、と思った。余計なことだと思っていたことが、余計ではなかった。

川の靄が、少しずつ晴れていった。