父が死んで十年が経つのに、光太郎はまだ夢の中で彼と話すことができない。
遺品を整理したのは妻の明日香だった。段ボール箱が三つ。光太郎はそのうちの一つを、ずっと開けられないでいた。
法要の前夜、ようやく蓋を開けると、一番上に折り畳まれた紙が置かれていた。広げると、それは手書きの地図だった。
波豆川の流れが、几帳面な細い線で描かれていた。「ヌルデの大木」「イノシシの通り道」「ウナギのいる淵」。父・義雄の字だった。設計士だった息子に似て、定規で引いたような整った文字だった。それとも、息子が父に似たのか。
光太郎はしばらく地図を眺めてから、また折り畳んでカバンに入れた。
翌日、西谷の小さな寺で法要が営まれた。住職の読経が、山の緑を揺らすようだった。
夜、宿の縁側に出ると、波豆川の瀬音が闇の中から届いてきた。夏草の匂いが濃かった。
「お父さん」
蒼が縁側に座り、地図を広げていた。いつカバンから出したのか、光太郎は気づかなかった。
「ここ、行ってみたい」
蒼の指が止まった場所には、小さな丸印だけがついていて、名前がなかった。波豆川が山側に折れるあたり、名もない淵のそばだった。
「おじいちゃん、ここが好きやったんかな」
光太郎は答えられなかった。
父が好きだったものを、自分は何一つ聞かなかった。川のことも、木のことも、この地図のことも。
聞ける時間は、十年前に終わっていた。
瀬音は静かに、それでも確かに、二人のいる縁側まで届き続けていた。
