清流の番人 〜西谷、夏の夜に灯るもの〜 #27-1

父が死んで十年が経つのに、光太郎はまだ夢の中で彼と話すことができない。

遺品を整理したのは妻の明日香だった。段ボール箱が三つ。光太郎はそのうちの一つを、ずっと開けられないでいた。

法要の前夜、ようやく蓋を開けると、一番上に折り畳まれた紙が置かれていた。広げると、それは手書きの地図だった。

波豆川の流れが、几帳面な細い線で描かれていた。「ヌルデの大木」「イノシシの通り道」「ウナギのいる淵」。父・義雄の字だった。設計士だった息子に似て、定規で引いたような整った文字だった。それとも、息子が父に似たのか。

光太郎はしばらく地図を眺めてから、また折り畳んでカバンに入れた。

翌日、西谷の小さな寺で法要が営まれた。住職の読経が、山の緑を揺らすようだった。

夜、宿の縁側に出ると、波豆川の瀬音が闇の中から届いてきた。夏草の匂いが濃かった。

「お父さん」

蒼が縁側に座り、地図を広げていた。いつカバンから出したのか、光太郎は気づかなかった。

「ここ、行ってみたい」

蒼の指が止まった場所には、小さな丸印だけがついていて、名前がなかった。波豆川が山側に折れるあたり、名もない淵のそばだった。

「おじいちゃん、ここが好きやったんかな」

光太郎は答えられなかった。

父が好きだったものを、自分は何一つ聞かなかった。川のことも、木のことも、この地図のことも。

聞ける時間は、十年前に終わっていた。

瀬音は静かに、それでも確かに、二人のいる縁側まで届き続けていた。