夕方になると、空の色が急に変わった。
波豆の山の向こうから、重たい雲が押し寄せてきた。川の音が低くなった。雨の匂いがした。
ぽつり、とひとつ。
縁側に落ちた雨粒が、白く弾けた。それからはもう、止まらなかった。
雨は瞬く間に激しくなり、宿の石段を叩き、庭の葉を揺らし、波豆川をみるみる濁らせていった。澄んでいたあの水が、茶色く重くなっていくのを、光太郎と蒼は並んで石段に腰をおろして見ていた。
「ねえ、お父さん」
蒼が言った。膝を抱えて、雨の向こうを見ていた。
「あの子、大丈夫かな。もう一度、会えるかな」
光太郎は少し黙った。
「会えんかもしれん」
「そっか」
蒼は怒らなかった。泣きもしなかった。ただ「そっか」と言って、また川の方を見た。
雨音が石段を満たした。
山から流れてくる風が、水の匂いを運んでくる。こういう夕立は、西谷の夏には珍しくない。波豆の田んぼが、雨を受けて揺れていた。
光太郎はふいに、頬が濡れているのに気づいた。
雨ではなかった。
(父に、会いたかった。)
それだけのことだった。たったそれだけのことを、十年かけてようやく気づいた。怒っていたわけではなかった。恨んでいたわけでもなかった。ただ、会いたかった。川の前で笑う父に、一緒に立ちたかった。
蒼が、そっと光太郎の腕に頭をもたせかけた。
何も言わなかった。
雨の音だけが、ずっとそこにあった。石段を、屋根を、川を、山を、等しく叩いていた。
やがて蒼が、小さく言った。
「おじいちゃんも、こんな雨、見たんかな」
「見とったと思う」
光太郎は、そう答えた。
それで十分だった。
