栗の落ちる音がした 〜西谷・秋のバス、一日の記憶〜 #28-1

宝塚駅の北口に、朝六時十七分のバスが静かに入ってきた。

「西谷・切畑線、試験運行初日でございます」

運転手の声は妙に改まっていた。乗客は岸田を含めて三人だった。

岸田誠三は窓際の席に腰を落とし、膝の上に古い取材ノートを置いた。開くでもなく、ただそこに置いた。十年前のものだ。表紙の角がほつれ、赤いボールペンで「西谷・農地転用」と走り書きがある。

バスは武庫川沿いに北へ向かった。

しばらくすると視界が開けた。川に沿って刻まれた棚田が、朝の光の中に広がっていた。稲刈りを終えた田んぼが、褪せた金色で続いている。岸田はその景色を見ながら、記者としての反射で言葉を探した。「武庫川上流域、秋の農村風景——」

だが、続かなかった。

坂本律子。

名前が、不意に浮かんだ。

先週、同僚の牧が何気なく言った。「西谷であの農家の女性、まだやってるらしいですよ。ひとりで」

岸田は「そうか」とだけ答えた。しかしその夜、十年前のノートを引っ張り出した。

彼女は農地転用に反対していた地権者のひとりだった。取材で会ったのは三度だけ。声は静かで、しかし言葉は揺るがなかった。「この土は、売るものじゃない」と言い切った目が、今でも思い出せた。

バスが小さなカーブを曲がったとき、窓ガラスに自分の顔が映った。

四十三歳。疲れた顔だ、と岸田は思った。記事を書くためではない。それだけはわかっていた。ではなぜこのバスに乗ったのか、問いの答えを彼はまだ、うまく言葉にできなかった。

車窓の向こうで、クヌギの木から何かが落ちた。

栗か、どんぐりか。確かめるより早く、バスは先へ進んだ。