波豆川の停留所でバスを降りると、空気がひと息に変わった。
川の音が近い。葉を落とし始めたコナラの梢が、秋風に揺れている。
道沿いに、簡素な直売所があった。木の台に野菜と栗が並んでいる。値札は手書きだ。
番をしていた老人が、岸田を見上げた。
「バスで来たんか。珍しい」
「ええ、久しぶりに」
岸田はそう答えながら、栗の袋に目を落とした。大ぶりな実が、ひとつひとつ丁寧に選られている。
「栗拾いなら、奥の山沿いの畑がええ。まだ残っとる」
老人は顎で示した。舗装が途切れ、獣道のような細い径が山に向かって続いていた。
礼を言い、岸田は径を歩き始めた。
落ち葉が靴の裏で鳴る。土の匂いがした。都市部の取材現場とはまったく異なる密度の、静けさがあった。
そのとき、足元に何かが転がってきた。
栗だ。
毬から外れたばかりらしく、濃い茶色の光沢が残っていた。
岸田は顔を上げた。
数メートル先の木の下に、人がいた。長い竹竿を持ち、枝を叩いている。ざわ、と葉が揺れ、また栗が落ちる。
女だった。
黒いエプロンに、泥のついた長靴。髪を後ろで束ね、帽子を深くかぶっている。
竿が一度、止まった。
女が、こちらを向いた。
十年で、少し細くなった気がした。それだけだった。目の奥の、揺らがない光は、変わっていない。
坂本律子だった。
彼女は一瞬だけ、表情を止めた。
岸田の目を見た。そしてすぐに、竿を振り上げた。
ざわ、と枝が鳴る。栗が、また落ちた。
岸田は何も言えなかった。十年分の言葉が、喉の手前で詰まったまま、散らばっていく栗の音を聞いていた。
