律子は何も言わなかった。ただ、岸田の足元に転がった栗をひとつ拾い上げ、竹籠の縁に置いた。
それが、合図だった。
岸田はかがみ、落ちている栗を拾い始めた。毬の刺さった指に、じわりと痛みが走る。それでも手を止めなかった。
籠の中で、栗が積み重なっていく。
「あの記事、読みましたよ」
不意に、律子が言った。
竿を持つ手は止めないまま、ぽつりと、それだけだった。
岸田は手元に目を落としたまま答えた。
「どんな印象でした」
「さあ」
短い沈黙。枯れ葉が一枚、ふたりの間に落ちた。
あの記事というのは、十年前に書いた農地転用問題の連載だ。地域住民の声を積み上げるように書いたつもりだったが、律子がその中に何を読んだのかを、岸田は一度も確かめたことがなかった。
確かめたかった、と今になって気づいた。
昼前になって、律子が「行きましょか」と言った。
軽トラの助手席は、農具の袋と泥のついた手袋が押し込まれていた。律子がそれを無造作に後ろへ放り、岸田は黙って乗り込んだ。
棚田沿いの道を走った。
西谷の山肌は、黄と赤が入り混じり、まだ緑も残っている。色の層が、光の具合で次々と変わる。岸田はそれをぼんやりと見ながら、自分がここに来た理由を、頭の中で何度も組み立て直していた。
坂本律子の消息を聞いた。それだけでここまで来たのだ。
記者として、ではない。
ではなんだ、と問い直しても、言葉が出てこない。感情を活字に変えることには慣れていたが、活字にならない感情に、岸田は酷く不慣れだった。
「栗、重かったでしょう」
律子がふいに笑った。
小さな笑いだったが、岸田にはやけに大きく聞こえた。
