栗の落ちる音がした 〜西谷・秋のバス、一日の記憶〜 #28-3

律子は何も言わなかった。ただ、岸田の足元に転がった栗をひとつ拾い上げ、竹籠の縁に置いた。

それが、合図だった。

岸田はかがみ、落ちている栗を拾い始めた。毬の刺さった指に、じわりと痛みが走る。それでも手を止めなかった。

籠の中で、栗が積み重なっていく。

「あの記事、読みましたよ」

不意に、律子が言った。

竿を持つ手は止めないまま、ぽつりと、それだけだった。

岸田は手元に目を落としたまま答えた。

「どんな印象でした」

「さあ」

短い沈黙。枯れ葉が一枚、ふたりの間に落ちた。

あの記事というのは、十年前に書いた農地転用問題の連載だ。地域住民の声を積み上げるように書いたつもりだったが、律子がその中に何を読んだのかを、岸田は一度も確かめたことがなかった。

確かめたかった、と今になって気づいた。

昼前になって、律子が「行きましょか」と言った。

軽トラの助手席は、農具の袋と泥のついた手袋が押し込まれていた。律子がそれを無造作に後ろへ放り、岸田は黙って乗り込んだ。

棚田沿いの道を走った。

西谷の山肌は、黄と赤が入り混じり、まだ緑も残っている。色の層が、光の具合で次々と変わる。岸田はそれをぼんやりと見ながら、自分がここに来た理由を、頭の中で何度も組み立て直していた。

坂本律子の消息を聞いた。それだけでここまで来たのだ。

記者として、ではない。

ではなんだ、と問い直しても、言葉が出てこない。感情を活字に変えることには慣れていたが、活字にならない感情に、岸田は酷く不慣れだった。

「栗、重かったでしょう」

律子がふいに笑った。

小さな笑いだったが、岸田にはやけに大きく聞こえた。