軽トラは、山裾の細い道を抜けて、波豆の集落へ下りた。
「せっかくやから」と律子は言い、ハンドルを切った。行き先を告げるでもなく、岸田も訊かなかった。
鳥居が見えた。
波豆八幡神社の石段は、落ち葉に薄く覆われていた。律子は慣れた足どりで上り、岸田はその半歩後ろをついた。境内に入ると、もみじが空を区切るように広がっていた。赤はまだ淡く、緑の名残りが多い。七分、という言葉が岸田の頭に浮かんだ。
「毎年ここで秋が来たって気づくんです」
律子が足を止めた。見上げたまま、独り言のように言った。
岸田は何も言わず、その横顔を、一瞬だけ見た。
社の脇に、古い由緒書きの板があった。風雨に洗われ、文字が薄れかけている。岸田は近づいて、目を細めた。創建、という字と、源氏に連なる名と、年号の断片。この土地が、幾つもの時代をくぐり抜けてきた痕跡が、朽ちかけた板に残っていた。
記者として読む目が、一瞬働いた。
しかしすぐに、その目が曇った。この土地の時間は、記事にするための素材ではなかった。もっと、別の何かだった。
「読めますか、それ」
律子が隣に立っていた。
気づかなかった。それほど、静かな気配だった。
岸田が答えようとしたとき、ふたりの肩が、わずかに触れた。
布越しの、小さな感触だった。律子は動かなかった。岸田も動けなかった。
胸の中で、何かが落ちた。
音のない音だった。栗が、草の上に落ちるような。柔らかくて、確かな、重さのある音だった。
岸田は由緒書きに目を戻した。文字は、もう読めなかった。
