バス停の屋根の下、ふたりは並んで立っていた。
西谷の日暮れは早い。棚田の向こうの山稜が、橙色に燃えるように染まっていた。
「岸田さん」
律子が、前を向いたまま言った。
「十年前の記事のこと、ずっと言いそびれていました」
岸田は黙った。
農地転用問題の記事は、当時の地方紙では大きく扱われた。行政の不透明な手続きを糾弾した内容で、岸田自身は取材に三か月をかけた。署名入りだった。
「あの記事が出てから、地区の中で人の見方が変わったんです」
律子の声は穏やかだったが、言葉の芯に硬いものがあった。
「転用に賛成した農家と反対した農家で、口もきかなくなった。私は転用に反対する側だったから、記事には正しく書かれていた。でも、その正しさが、かえって……」
言葉が途切れた。
岸田は何も言えなかった。
「私自身も、集落の中で孤立した時期があって」
律子は山のほうを見ながら続けた。
「でも、書いてくれなかったら、誰も知らなかった。それも本当のことだから」
正しさと傷が、同じ場所にある。
記者を二十年やってきて、初めてそれを正面から言われた気がした。
「律子さん」
岸田は、記者の言葉ではない何かを探した。しかしうまく見つからなかった。
遠くで、バスのエンジン音がした。
夕光の中を、山あいの道を縫うように、オレンジ色の車体が近づいてくる。
律子が少しだけ岸田のほうに顔を向けた。
「来ましたね」
それだけだった。
長い沈黙の跡が、ふたりの間にまだ残っていた。西谷の山々が、橙から薄紅へと色を変えていった。
