バスの扉が開いた。
段差のところで、岸田は一度立ち止まった。
振り返ると、律子はまだバス停の屋根の下に立っていた。夕暮れの薄紅が、彼女の輪郭をやわらかく縁取っていた。
「また来ていいですか」
声にしてから、岸田は自分でも驚いた。記者の言葉ではなかった。理由も、用件も、何もない問いだった。
律子は少し間を置いた。
「栗は今月いっぱいですよ」
それだけだった。
拒絶でも、許可でもなかった。ただ西谷の季節が、そこにあった。
岸田はもう一度だけ彼女を見た。律子は前を向いていた。笑っているのか、いないのか、その距離からはわからなかった。
扉が閉まった。
バスがゆっくりと動き出した。窓の外、棚田の黄金色が流れていく。山の稜線に沿って、木々が薄く赤く色づいていた。西谷の秋は、声を立てない。
岸田はコートのポケットからメモ帳を取り出した。
いつもなら、ここに事実を書く。日時、固有名詞、発言の要旨。記事の骨格になる言葉たちを。
しかし今日は違った。
ペンを走らせたのは、こんな一行だった。
――正しさと傷が、同じ場所にある。それでも、また来たいと思った。
記事にならない言葉だった。署名も、見出しも、要らない言葉だった。
バスは山あいの道を曲がり、西谷の集落が見えなくなった。
栗は今月いっぱい、と律子は言った。
今月は、まだ終わっていない。
岸田はメモ帳を閉じずに、膝の上に置いたまま、遠ざかる山の色をずっと見ていた。
