栗の落ちる音がした 〜西谷・秋のバス、一日の記憶〜 #28-7

バスの扉が開いた。

段差のところで、岸田は一度立ち止まった。

振り返ると、律子はまだバス停の屋根の下に立っていた。夕暮れの薄紅が、彼女の輪郭をやわらかく縁取っていた。

「また来ていいですか」

声にしてから、岸田は自分でも驚いた。記者の言葉ではなかった。理由も、用件も、何もない問いだった。

律子は少し間を置いた。

「栗は今月いっぱいですよ」

それだけだった。

拒絶でも、許可でもなかった。ただ西谷の季節が、そこにあった。

岸田はもう一度だけ彼女を見た。律子は前を向いていた。笑っているのか、いないのか、その距離からはわからなかった。

扉が閉まった。

バスがゆっくりと動き出した。窓の外、棚田の黄金色が流れていく。山の稜線に沿って、木々が薄く赤く色づいていた。西谷の秋は、声を立てない。

岸田はコートのポケットからメモ帳を取り出した。

いつもなら、ここに事実を書く。日時、固有名詞、発言の要旨。記事の骨格になる言葉たちを。

しかし今日は違った。

ペンを走らせたのは、こんな一行だった。

――正しさと傷が、同じ場所にある。それでも、また来たいと思った。

記事にならない言葉だった。署名も、見出しも、要らない言葉だった。

バスは山あいの道を曲がり、西谷の集落が見えなくなった。

栗は今月いっぱい、と律子は言った。

今月は、まだ終わっていない。

岸田はメモ帳を閉じずに、膝の上に置いたまま、遠ざかる山の色をずっと見ていた。