朝霧が波豆川の谷あいに白く溜まっている。
蓮が畑に出たのは、まだ七時を少し回ったころだった。昨夜から頭を離れない鍵のことを、体を動かしながら整理しようとしていた。
隣の畑に、人影があった。
長い黒髪を後ろでひとつに束ねた少女が、鍬を振るっていた。迷いのない、一定のリズムで。
「……おはようございます」
声をかけると、少女はこちらをちらりと見た。驚く様子もなく、「おはよう」とだけ返す。
「吉野ふゆ。農業高校二年。あなた、黒瀬さんとこの孫?」
問いなのか、確認なのか、判然としない言い方だった。
「そう、です。蓮。黒瀬蓮」
「知ってた」
ふゆはまた鍬を動かした。会話を終わらせるように。
蓮は少し迷ってから、ハンカチに包んだ鍵をポケットから取り出した。
「あの——昨日、畑でこれを見つけて」
ふゆの手が止まった。
一瞬だけ。だが確かに、止まった。
彼女はゆっくりと振り返り、鍵を見た。真鍮の錆。刻まれた細かな模様。その視線が、するりと険しくなる。
「……それ、どこで見つけたの」
声のトーンが、わずかに変わっていた。
「祖父の畑の、土の中。だいたい三十センチくらい——」
「どのあたり」
「北の端。石垣のそば」
ふゆはしばらく黙っていた。朝霧がゆっくりと動いている。遠くで鳥が鳴き、波豆川の水音だけが変わらず流れた。
「捨てておけばよかったのに」
それだけ言って、ふゆは背を向けた。
「待って——」
「聞かないほうがいいこともある」
声に、棘はなかった。むしろどこか、心配するような響きがあった。それがかえって、蓮の胸にじわりと染み込んだ。
《吉野ふゆ・農業高校2年・西谷在住。鍵を見て明らかに動揺。知っている》
蓮はスマホに打ち込んだ。霧の向こう、ふゆの背中はもう小さくなっていた。
